南田維葉の180度違う 8つの考え方: 体主、絶対、責任、現実、徳縁、平等、多様、平和

プロフィール

こんにちは!南田維葉です~

東日本大震災で被災したのち、長野の標高1000m超の山中に移り住みました。
この記事を執筆しております2023年で山ぐらしも早12年となりました。

この2年は春から秋まで働いて、稼いだお金で食料などを買い込んで、冬の間雪山にこもるという「冬ごもり」スタイルで暮らしています。
雪山はときに零下20℃まで気温が下がりますが、安いストーブをDIYで改造して、解体現場で頂戴した廃建材を焚いて暖かく過ごしています~

2023年現在、冬ごもりだけならず、年中山ごもりできないかと在宅のお仕事を検討中!。

と、ここまで読んで(おつきあいありがとうございます)、

なんかおかしな人だな

と思われた方がほとんどでしょう~

本記事では、そんな「おかしな人」の考え方を8つ、ご紹介しようと思います。

ここでご紹介する南田の考え方は、基本、世間一般の考え方とはどうも180度違っているように思います。 ⇦ 一応自覚はあるんですよ

まあ、だからこそ「おかしな人」なんですけどね。

そんな「おかしな考え方」が8つもあるので、南田にとってこの世界は異世界に感じるのですね。

でも、ちょっとまってください。

今の世界、

なんかおかしいな? って思うことありませんか?
いまのままでいいのかな? って思うことはありませんか?
そのように感じる方は、ぜひこの記事を見てみてください。
いつもと違う見方で世界が見えるようになるかもしれませんよ。
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それではごゆっくり見ていってくださいね

南田維葉の180度違う 8つの考え方

では、南田維葉の一般世間とは180度違う8つの考え方について、ご紹介していきたいと思います。

8つとも

そうだよね!

と共感する奇特な「異世界人」がいらっしゃったらぜひご連絡くださいね。

体主主義: 身体は自分の主です ⇔ 忖度主義

ひとつめが、「体主主義(たいしゅしゅぎ)」

いつものことながら南田の造語でございます。

これは、一言でいうと、

「身体は自分の主です」

ということです。そのまんまですが、、、、

南田の感じるところでは、どうも世の中一般の方は

「自分が身体の主です」

と思っている方が多いように思います。
自分は身体の主であって、自分が体を支配し、コントロールしている、身体は自分の指示で動くものだ、と思っていないでしょうか?

もう少し広げて考えると、

身体  自分  親、先生、上司、政治家、監督、、、、

みたいな構図になってないでしょうか?

「空気を読む」とか「忖度する」

という言葉はよく聞くと思うのですけれど、
これらはようするに、

自分の外のもの、自分より上の立場の人

に従って自分の行動を決めている、つまり主従関係が

自分の外のもの、自分より上の立場の人 = 

となっているといえます。

そして、

自分の外のもの、自分より上の立場の人のいうことに従って、自分が身体をコントロールする。

だから

「自分が身体の主です」

となるのではないでしょうか?

そんなのアタリマエでしょ!

という声が聞こえてきそうですが、いやいや
ほんとにそうですか?

南田の考え方は全く逆です。

南田にとっては先ほどの構図でいうと、

身体  自分  親、先生、上司、政治家、監督、、、、

となり、

自分の内のもの、自分より下の立場の人 = 

となり、それゆえに

「身体は自分の主です」

となっておりまして、全く逆ですね。

南田の感覚でいうと

身体は自分の主であり、
自分は身体が最大限のパフォーマンスを出せるようサポートする

となります。

同じように、

子供は親の主であり、
親は子供が最大限のパフォーマンスを出せるようサポートする
生徒は教師の主であり、
教師は生徒が最大限のパフォーマンスを出せるようサポートする
部下は上司の主であり、
上司は部下が最大限のパフォーマンスを出せるようサポートする
国民は政治家の主であり、
政治家は国民が最大限のパフォーマンスを出せるようサポートする

となります。

そんなにおかしなことはいってないように思うのですけれど、いかがでしょう?

話はじめるとこの話は長くなるので、詳しくはまた別の機会にお伝えできればと思います。

ここでは、

南田は

身体は自分の主であり、
自分は身体が最大限のパフォーマンスを出せるようサポートする

という考え方で生きていることをご理解いただければ幸いです。

こういう考え方なので、南田は物心ついて以来ずっと、自分の身体が「居心地がよい」と思うくらしを探してきましたし、その際には

楽しい
おもしろい
やってみたい

という自分の身体の感覚をもとに動いてきました。

そういう感じでいつも「自分の内側」に基準があるので、「空気が読めない」し、「忖度できない」人なんです。

別記事で、「南田のズレた8つの特徴」について書きましたが、この「ズレた特徴」は、こういう180度違う考え方からきているのですね。

ナットク!

絶対主義: 自分が基準です ⇔ 相対主義

先に書きましたように、南田はものごとの判断の基準が

「自分の内側」

にあります。

ゆえに、

場の空気が~だから

という「空気を読む」ということができないですし

上司がこう考えているだろうから

という「忖度」が苦手です。

それに、南田の場合

自分がいいと思うからやる

他の人がこう考えているから
他の人がこうやってるから
人からどう思われるか

ということは、あまり考えないです。

日本人は特に同調圧力というものが大きくて、

ほかの人と比較してどうか?

という風に考えることが多いように思います。

自分がどうしたいか

ではなく、

他の人と比較してどうか

を重視します。

この、判断の基準が絶対的なものとして自分にあるのか、相対的なものとして自分の外にあるのか、ということが考え方の違いの2つ目ですね。

まわりに合わせる
上の言う通りやる
書いてある通りやる

という、自分で考えない、思考停止のやり方は
たしかにスピードは速いのでしょうし、
条件が変化しない決まった社会であれば、決まったことをやることが
よいのでしょうけれど、

さて、今の社会でそれで大丈夫なの?

と南田は思うのです。

今の社会は変化がすごく速いです。
昔のこと、上の人の言うこと、周りの人のやることが
いつも正しいのか、というと疑問です。

それに、

決まりきったことをやる

ということに関しては機械やAIの方が優秀でしょうから、思考停止して自分で考えないようになってしまうと、いらない人、になっちゃう気がするのですけれど、どうなんでしょう?

判断の基準が絶対的なものとして自分にある 絶対主義
相対的なものとして自分の外にある     相対主義

さて、みなさまはどちらですか?

責任主義: 自分で判断します ⇔ 無責任主義

3つ目が、「責任主義」

またまた南田の造語です。

自分の行動に責任を持っているか否か。

自分で考えて責任を持って行動する場合は 責任主義
自分で考えず、人に責任をゆだねる場合は 無責任主義

と定義しました。

これは、先ほど述べた、「絶対主義」と「相対主義」を別の視点で見たようなものです。

絶対主義では、判断基準が自分にあって、自分で判断するので、その判断の結果は自分にも責任がある、と考えます。

一方。相対主義では、判断基準が自分の外にあるわけで、その判断の結果についての責任はどうでしょうか?

多くの場合、悪い結果になったとしたら

言われた通りやっただけで私は悪くない
自分は嫌だったけど周りがね
立場上やらざるをえなかったんです
ルールで決められてるんだからしかたないじゃん

というふうに、自分に責任はない

と考えるのではないでしょうか?

逆の見方をすれば、

責任を取りたくないので、自分の意見はいわない
いわれたとおりやる

という考えが多いのかな、といつも思います。

責任もってやってる人に対して、文句や要望ばかり言って、

じゃああなたやってくれない?

というと、いやいや私はそんな、、、

という人をこれまでたくさん見てきました。
自分じゃできないのに人には注文つける、というのはなんだかなあ、といつも思っちゃいます。

さてさて、

自分で考えて、責任をもって行動する  責任主義
自分で考えず、人に判断をゆだねる   無責任主義

あなたはどちらでしょう?

現実主義: 事件は現場でおこってるんだ! ⇔虚構主義

南田の考え方の4つ目が「現実主義」。言い換えると「現場主義」ともいえますね。

これに対する世間一般の考え方が「虚構主義」です。

世の中、机上の空論で、現実に合ってない理想ばかり主張する人が結構多いな、と感じています。特にいわゆる「意識高い系」の人たちは頭でっかちで、

~でなければいけない
~であらねばならない

という、原理主義的な方が多いように感じます。
「現実」よりも自分の頭の中の「虚構」を信じる人ですね。

これは前述の「絶対主義」「相対主義」とも重なる話で、自分に判断簿軸がある「絶対主義」の場合、自分が今、「現場」で感じた「現実」を元に判断をするのですが、「相対主義」の場合、過去の事例やルール、世間体、上司の気持ち、などなど

 自分の頭の中に作られた情報=虚構

が判断材料として重視されます。

職場でも

いやいや現場をみてから言ってくださいな!

といいたいことが多々あります。

まさにこれですよこれ!

「事件は会議室で起こってるんじゃない!現場で起こってんだ!」

なつかしい。。。

いやほんとにそういいたい時、ありますよね。

でも、なんだかんだ会議室から指示出すだけで現場をみないタイプの人って多いんじゃないかな、と思います。

さて、みなさまはいかがでしょう?

徳縁主義: 徳孤ならず 必ず隣あり ⇔ 金縁主義

次は5つ目「徳縁主義」

またまた南田の造語です(⇦いくつあるんじゃい)。

世の中いろんなご縁があって、縁でつながって人の社会ができています。そしてどんな縁が重視されるかはその社会によって異なります。

狩猟採集社会であれば、家族や親類が集まった「血縁主義社会」がもとにあるでしょうし、農耕がはじまって定住するようになると、血縁の集団を越えて、その土地に住む人達が助け合う「地縁主義社会」になります。

工業社会になると、血縁や地縁は薄まって、人は都市へ集まって、会社などの組織の中で助け合うようになります。これにあてはまるいい言葉がみつからなかったので、ここでは「社縁主義社会」とでもしておきましょう。

日本では、工業社会から情報化社会に移るころ、バブル崩壊(1991年ごろ)があって、非正規社員が増加、会社への帰属意識は低下しました。

今現在、人をつなげている1つはお金です。お金をたくさんもらえる会社に人は移り、会社の業績が悪くなれば、「金の切れ目が縁の切れ目」、非正規社員から首切り、となります。

ということを考えると、

今は金縁主義社会である

というのが南田の考え方です。

血縁地縁社縁もなくなって、人々が「個人」のレベルまで分解された現在、人同士をつないでいる縁の大部分「お金」だと思っています。

だから高齢者は年金にしがみつくし、若者は「いい学校を出て、いい会社に入って、高いお給金をもらう」ことを目指します。

働き盛りは老後に備えて投資を!なんて言葉もよくきかれますね。

それは、多くの人が、

お金があれば何でもできて安心
お金がないと何もできなくなるので不安

という、金の切れ目が縁の切れ目、の金縁主義社会に生きているからだと思います。

これに対して南田の考え方は、

お金によらず人を助ける が縁をつなぐ社会がいいな

というもので、これを徳縁主義徳縁主義社会と名付けました。

かの孔子も言ってますよ

徳孤ならず かならず隣あり

徳のある人は決して孤立することはなく、誰かが隣にあり、困ったときにも助けてもらえる、ということです。

たとえお金が無くなっても徳のある人は誰かが助けてくれます。徳がえんをつないてくれるのですね。

また、安冨歩氏は著書『生きる技法』(2011/青灯社)の中で、

「助けてください」といえたとき、人は自立している

と書いています。

この本はちょっと理屈っぽいですが、とてもいい本です。
もう少しわかりやすく書かれているのが、同著者の書いた、『あなたが生きづらいのは「自己嫌悪」のせいである』(2016/大和出版)で、こちらもおすすめです。

上記の言葉は、「自立」というのは、一人で何でもできるようになる、ということではなくて、「助けてください」といえるたくさんの人に頼ることだ、ということを言っているのですけれど、この言葉の裏には

助けてもらいたい時に助けてもらえる自分になりましょう

という想いがあると、南田は思います。

さて、

助けてもらいたい時に助けてもらえる人

ってどんな人でしょうか?
あなたが「助けたい人」を思い浮かべてみてください。

それはやっぱり普段から人を助けている徳のある人ではないでしょうか?

血縁や地縁、社縁や近縁によらず、人々がお互いに助け合うことでお互いを支えるのが、南田の考える「徳縁主義社会」です

いまこの国の多くの方が頼りにしている「お金」。
今の世界の状況をみると、そればかりに縁を求めていて大丈夫なのでしょうか?。

この国は少子高齢化で、先は長くはなさそうですけれど、徳縁でつながった小さな社会がこれからいくつもできてくるのではないかと南田は思っています。

平等主義: あまったのであげますよ ⇔ 格差主義

さあ6つ目の考え方は、平等主義

今の資本主義社会は格差主義だと南田は考えています。勝ち組負け組を作ってそこに格差を作る社会。

勝った方は負けた方から搾取する。負けたものは、「お前の努力が足りないからだ」と軽蔑される。だから勉強しなさい、いい学校に入りなさい、いい会社に入りなさい、と教育されるわけです。

まさに弱肉強食社会ですな。

ここのところが子供の頃からすごく違和感のあるところでして、

そんな世界のどこがよいのだろう

と思っていました。

別に社会主義社会にしましょう、というわけではなくて、
いわゆる「勝ち組」の「お金をたくさんもらえる仕事」というのは、

それだけたくさんの人に大きな影響を与える仕事で、責任が重い

からもらえるのであって、いい学校を出た、という肩書でなるものではないと思うんですよね。本来は高い応力のほかにも人一倍の責任感や徳が必要なものです。

それに、もらったたくさんのお金をどう使うのか?

ということも社会への影響が大きいと思います。

お金だけでなく、才能、時間、ものなどもそれを多く持っていて余裕のある人が、それを社会のために使うのか、そうでないのか、ということがその社会の良しあしに大きく影響する

と南田は思っています。

お給金の高い仕事を目指すのは悪いことではないけれど、

そういう仕事は大きな責任を伴うもので、徳を磨く必要があるし、
もらったお金の使い方もよく考えないといけないよ

ということもいっしょに教えないといけないんじゃないか、と思います。
どうも今の教育はそのあたりがすっぽり抜け落ちている気がしますね。

人はそれぞれ生まれも育ちも違います。もってる才能もお金も物も使える時間もみな違います。足りない人も余っている人もいるわけで、

だったら余っている人が足りない人に分けてあげればいんでないの

と思うわけです。

吾唯足知

十分だな、と思ったら足りない人に分けてあげる
足りない時は余ってる人に分けてもらう

そういう社会がいいんじゃないかと思います。

これはまさに前述の徳縁主義社会ですね。

日本もバブル崩壊で経済が落ち込んだ時に、当時の既得権をもっていた上の人たちがそれを手放して、才能のある若い人にかじ取りを譲っていたならだいぶいい社会になったと思うのですけれどね。

既得権者は未だそれを手放さず、年金や社会保障のため借金をして、まだ生まれもしない子孫からお金をむしりとっているように思います。

今後は既得権高齢者のつくる金縁社会とそこから離脱した下の世代の作る徳縁社会にこの国は分離していくんじゃないかなあ、と考えたりします。
さてさてどうなることやら?

多様主義: みんな違うのですよ ⇔ 単一主義

次なる7つめは、「多様主義」

近頃は昔に比べれば多様な価値観というのも認められるようになってきたように思いますが、この国の場合、トップダウンな形で表向きそうなっている、だけで本音の部分はまだまだ単一化の同調圧力は根強いように思います。

個性的なのは別にいいけど、私にはかかわらないでね

みたいなところはあるように思います。

南田は物心ついた時から世間様からずいぶんズレた人間だったので、周りに合わせようにも合わせられない部分が多くありました。

南田に限らず、人それぞれ遺伝情報は違っているし、育った環境も違います。
作家の橘玲さんは著書『言ってはいけない 残酷すぎる真実』(2016/新潮社)の中で、

外見のみならず、能力の大部分は遺伝子で決まる
努力は遺伝に勝てない

とおっしゃっています。

だから、自分が遺伝的にどうか?ということを知った上で、ではどうする?と考えることが大事、といっています。

下記の動画が9分の短い時間にまとめられていてとてもわかりやすいので、お時間ある方はぜひ見てみてください。

 

能力の多くが遺伝子で決まっているのに、そのことはこの国では公には「いってはいけない」ことになっています。

努力すればできるはず
できないのは努力が足りないからだ

と、みなに同じようにできるように努力を強要してるんですね。

どれだけやっても遺伝的にできない人もいるのに

です。

そもそもこのように「できること」が人それぞれ違うのは、社会がうまく機能するために必要だからですね。必要なければ進化の過程でとっくの昔に淘汰されてしまっているはずです。

だから、人それぞれ違っている「できることを」うまいこと組み合わせることで、いい社会ができるというふうに考えて、多様性を重んじるのがいいんだと南田は思います。

そういうことを前提に社会を作るべきだし、教育もそうあるべきと思うのだけれど、そもそも「違っていること」「いってはいけないこと」になっている社会では、なかなかこの多様性を認めない単一主義をなくすのはむつかしいのかもしれません。

しかしそうはいっても、変化の激しい時代では単一な力では様々な状況に対応できません。それぞれの得意を活かして対応できる社会の方が生き残れると思うのですけれどね。

そういう意味でも、前述の徳縁主義社会は、能力のある人がない人を助ける社会なので、お互いに足りないものを補うことができていいと思います。

平和主義: 勝たずに負けない戦いをしよう ⇔抗争主義

さて最後の8つめの考え方が「平和主義」です。

いやいや日本は平和でしょ

といわれそうですが、確かに諸外国に比べればうんと平和だな、と近頃は特に思います。これを書いている2023年現在、中東情勢は非常に緊迫化してますし、ウクライナ危機も泥沼状態です。

それはそうなんですけれど、社会のありようとしては勝ち組、負け組という形がありますし、受験戦争に勝つ、投資に勝つ、恋愛に勝つ、などなど

戦って勝て!、逃げずに立ち向かえ!

みたいなことがよく言われます。

前述のように南田は「絶対主義」であり、自分がどうであるかが大事ですので、他人に勝つ、打ち負かす、ということを考えません

戦ってもいいことはないので、「戦わないで済む方法」を探します。戦いにならないよう戦いになりそうな場所を「①感知」して、そこを「②避ける」ようにします。戦いを吹っかけれないように「③隠れる」ようにして、吹っかけられそうになったら全力で「④逃げる」ようにします。

戦いがどうしても避けられない時は「⑤かわす」ことに全神経を注ぎ、どうしてもかわせないときは「⑥受け流す」ことに集中して、なるべくダメージが小さくなるようにします。

そして、倒れてもすぐに「⓻立ち上がる」ようにします。この戦法で最終的に「⑧負けない」戦いをめざします。勝つこと、打ち負かすことは考えません。相手がもういいや、と戦い自体をやめることが目標ですね。

 

戦いが終わるまで負けないこと

これが目指すところです。これが南田の平和主義です。

 

成功の秘訣は成功するまでやめないこと

という言葉もありますね。
何をするにも続けることが大事です。

やらなくて済むことならやらないのがいいです。
でも、やらなきゃいけないならできるまでやりつづけるタフさメンタルの強さが必要ですね。

 

なるべく戦わなくてすむように努力すること
どうしても戦わなければいけなくなったら、
勝のではなく、「負けないこと」をめざすこと

これが南田の考える平和主義です。

 

まとめ

長文最後までご覧いただきましてありがとうございました。

感謝、です。

さて、南田の8つの考え方についてご説明しました。

8つの考え方とは下記の8つで、いずれも世間一般とは180度違っているものです。さすがに8つもあると社会になじめないのも納得ですね。

①体主主義: 身体は自分の主です ⇔ 忖度主義
②絶対主義: 自分が基準です ⇔ 相対主義
③責任主義: 自分で判断します ⇔ 無責任主義
④現実主義: 事件は現場でおこってるんだ! ⇔虚構主義
⑤徳縁主義: 徳孤ならず 必ず隣あり ⇔ 金縁主義
⑥平等主義: あまったのであげますよ ⇔ 格差主義
⓻多様主義: みんな違うのですよ ⇔ 単一主義
⑧平和主義: 勝たずに負けない戦いをしよう ⇔抗争主義
とはいえ、本人は大真面目にこう考えていますし、これからの時代はこういう考えになっていくのではないかと勝手に思っているので、もしみなさんが
今の社会はなんか変だな?
と思ったときに考えるヒントにしてもらえたらと思います。
ではでは今日もぼちぼちがんばってまいるといたしましょう~
南田維葉
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